
開催日:2025年11月30日(日)
会場:府中市民協働まつり会場内ブース
『夢十夜』は1908年(明治41年)に朝日新聞に連載された連作短編小説。各話は「こんな夢を見た」という一文から始まり、現実を超えた非日常的な体験が描かれる。
【あらすじ】
「自分」は六歳の子を背負って田圃道を歩いている。子供は確かに自分の子で、しかも目が潰れている。目が見えないはずなのに、妙に大人びた口調で周囲の状況を次々と言い当てていくので不気味に思い、どこかに子供を捨てようと考えるが、そう考えていることまで言い当てられ、恐怖心は一段と募る。
そんな時、森の中で一本の杉の木を通りかかると、「御父さん、その杉の根の処だったね」と子供が言う。
「お前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」
その言葉を聞いた途端、「自分」は今から百年前の晩、ここで一人の盲目を殺したことを思い出した。自身が人殺しであったことを自覚した途端、背中の子供が急に石地蔵のように重くなった。
【読書会で出た感想(後で送られたコメントも含みます)】
夢の話
👧おんぶしている子供の目が潰れているってどうしてわかるのかな。なんか、このお話、入り込めない感じ。「確かに自分の子だ」と言っているけど、ホントに親子なの?と思った。息子なら一番かわいい筈なのに、気味悪いからって捨てようとするし。
👱辻褄が合わない部分が多くて戸惑うけれど、夢の話だからなあ。
👩他人の夢の話はたいていつまらない。物語の最後に「実は夢でした」となるのも最悪。でもこれは「こんな夢を見た」で始まるから、逆に、小説として作り込まれた作品なんだなと思いました。
100年前に何か事件があった?
👨🦰100年前つまり文化五年の辰年に盲目の人を殺したことを主人公は思い出す。その年に日本で大事件でも起きたのかなあ。ひっかかります。そのときの何かが乗り移っているとか、生まれ変わりとか。
👩🦳100年前って、先祖の因縁とか?
👩🦱小説の中身とは関係ないんじゃない? 100年前というのは単にだいぶ昔のことという意味でしょう。作者が書いている時点から100年前が文化五年というだけのこと。
これは怪談話?
👱水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』に出てくる子泣き爺を思い出しました。漱石の時代はけっこう怪談が流行っていたんだよね。小泉八雲の『怪談』もこの時代に発表されているし。
👩これは怪談なの? 読み進むにつれ、最後そうなるんじゃないかなと思っていたら、やっぱりで、ゾーッとした。
👧子供を捨てるのか捨てないのか、気になった。子捨ての話なのかと思った、姥捨山みたいな。
👩🦳これから先この子を背負って歩き続けねばならないなら自分の生活が犠牲になる。子を捨てれば自分の生活が成り立つ。盲目の6歳児を森の中に置き去りにすれば生きていけないから殺すのと同じで、生きている限り、子供を犠牲にしたという後ろめたい思いから永久に逃れられない。
👩やだ、介護疲れの果ての老親殺しみたい。
👨🦰怪談より怖い。
漱石の思い
👩🦳人は生まれる前からの、身に覚えのない罪、業(ごう)を背負っていると漱石は言いたかったのかしら。120年ほど前の漱石の思いは現代の人にも通じるところがある。今も読みつがれている理由なのでしょうね。
👩🦱漱石は旧制一高で英語を教えていました。前任は小泉八雲。八雲は学生に慕われていたけれど漱石は教え方が悪いと人気がなかったらしい。一高の学生だった藤村操が華厳の滝で投身自殺したのは世間を騒がす大事件でしたが、自殺直前に彼を漱石が叱っていたこともあって、あれやこれや気に病んでいたそうです。
👱藤村操の自殺の責任を感じていたんだね。重荷を背負っていたというわけだ。後ろめたいものがあって、忘れたいけど忘れられず、苦しんでいた。それがこの作品に反映されているということか。
👧背負っている子供というのは自分の過去、つまり自分自身とも解釈できるわね。
👩🦱第三夜だけでなく、残りの9話を読むと、もっと色んなことが見えてくるかも知れませんね。
